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一生勉強と心の修行


支局長からの手紙 津軽三味線 島根

 先日、第120回記念島根書道展の表彰式・祝賀会が松江市内のホテルであり、出席しました。祝賀会で冒頭、津軽三味線の演奏がありました。演奏していたのは、松江市在住の高橋明山さん(71)=本名・横手富士雄。力強い三味線の音色を聴きながら、「この人はどんな人生を送ってきたのだろう」と興味がわき、お話をうかがいました。
 横手さんは、江津市生まれ。3歳の時、はしかで視力をほとんど失いました。県立盲学校を卒業後、松江市内で針灸の治療院を開設しました。
 盲学校時代、授業で柔道を習いましたが、物足りなさを感じ、21歳で柔道場の門をたたきました。「普通の人と同じように、社会に出て通用する人間になりたいという気持ちが強かった」と横手さん。当時道場には80人以上がいましたが、盲人は横手さんだけでした。
 横手さんは先生の体を手でさわって、技を覚えたそうです。ハンディは大きく、試合では一瞬で転がされたそうですが、負けず嫌いの性格で、毎日午前4時に起きて、町内をうさぎ跳びで一周。さらに電柱に柔道着を巻きつけて打ち込みの練習をするな
ど、実力をつけ、27歳で二段を取得しました。
 32歳で柔道をやめ、安来節の三味線を習います。師範にまでなりましたが、あくまで歌の伴奏のため、もっと三味線の音を聞いてほしいと思うように。そのころ、ラジオで津軽三味線の名人、高橋竹山の「津軽じょんから節」を聞いて、「これだ」と思いました。すぐに竹山に電話したら、神戸に住んでいた一番弟子の高橋栄山を紹介され、39歳で弟子入り。週に一度、夜汽車で神戸に行き、厳しいけいこに耐えて津軽三味線をマスターしました。
 そして、ここからがすごいのですが、三味線とつえを持って、関東から西の各地の飲み屋街で流しを始めます。両親と妻や子どもらに生活費を仕送りするため、三味線の腕を上げるため、必死でした。飲み屋街の構造を旅館の人らに教えてもらい、店を一軒一軒回っていきます。大阪では酔客に「目が見えないふりをするな」とののしられるなど、ずいぶんひどいことを言われたそうです。つえを持っているため、雨が降っても傘はさせません。旅館に泊まる金がなく、三味線を抱えたまま駅のホームで一晩を過ごしたことも。東京では、間違ってストリップ劇場に入って、追い返されたこともあったそうです。さまざまなつらい経験も柔道で鍛えた体で耐え抜き、約10年間、流しを続けました。
 「みじめな目にあい、どん底を味わった。家族を養うため、何を言われてもがまんし、命がけで三味線を弾いた」と語ります。逆境を乗り越える力が、三味線の音色にドラマを感じさせるのだとも。
 52歳で師範・高橋明山に。各地の公演に招かれるようになり、レコードも出しています。
 話を聞いていて、人生を生き抜くたくましさに圧倒されました。横手さんが、いつも心がけていることは「一生勉強と心の修行」。見習いたいと思います。
by wappagamama | 2012-04-25 10:05
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