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ちょっとうれしいことがあった最近の話その5


 押入れから私の宝物を発掘してくれたその翌日のこと。

 私の所属する、湯沢市雄勝郡視覚障害者福祉協会と湯沢市雄勝郡鍼灸マッサージ師会との合同で、「地域交流活動として、毎年施設に赴いてボランティアマッサージを実施している。
以前は老人ホームなどに行っていたが、数年前からノロウイルスや・インフルエンザなど猛威を振るっていたころ、施設内に外部からの人の出入りを制限されたことにより、私たちのボランティアマッサージもその範疇にあった。
そのため受け入れ先を変えなければいけなくなり、私たちが普段お世話になっている施設にお礼をしたいという思いから、湯沢市社会福祉協議会へ受け入れていただくことになった。
勿論、社共さんからのさまざまなご支援をいただいていることは何回か記事にしたことはありますが、その他に私としては、部署は違っていても、介護福祉の方の職員さんたちにもマッサージで疲れを癒していただきたいという思いがあった。

 介護福祉のほうは、私がお世話になっているヘルパーさんたちの事務所であり・また、ディーサービスで働く職員さんたちの所属するところでもある。
普段、治療院にやってくる患者さんたちの仲には、そういった介護の仕事をしている職員さんたちがいかに体を酷使して働いているかということを目の当たりにしている。
お年寄りそのものは国・県・市町村から色々な恩恵を受けられる。
むしろ、そういった施設で働く介護しさんたち職員さんたちのほうが過酷な労働を虐げられている。
そういった方たちに何らかの手を差し伸べることができたらという願いがかなって5・6年になる。

 介護の職員さんたちが送迎や・在宅介護を終えて、事務所に戻るころを見計らって、実施時間を午後の4時半から・6時ころまでとした。
全般事務所の職員さんたちに、後半介護のヘルパーさんたちに利用していただけたらと思い、情報を流しておいていただいていた。


  今年は、施術者(鍼灸マッサージ師)6名に協力参加していただいていた。
社共の玄関に着いたとたん、数名の職員さんたちが出迎えてくれた。その中にはかの有名な「泣く子も黙る」局長さんの声もしていた。
そしてエルモの足を拭き、スリッパに履き替えたとき、小さな声で「柿崎さん Eです」と手を握ってくれた人がいた。
まさにその声は、あの記録長に書いてあったEちゃんだった。
畳敷きの広間のテーブルの足にエルモをハーネスをはずして渓流し、座布団を敷いて準備しているまもなく、普段私たちがお世話になっている職員さんたちが次々と挨拶にいらしてくれてマッサージを受けていただいた。
一番にいらしてくれたのが、Sさん、去年在宅介護で外出がなかなかできないご家族のために慰労会を企画していた所長さんである。
「あの時のマッサージがとても気持ちよかったと、皆さんに大変喜んでいただきました。今年もまた企画したいと思いますのでどうぞご協力ください」。と丁寧にてをついで頭を下げてくださった。
ご本人にマッサージを施してあげていたけど、腰周辺には手を当てただけでくすぐったいと、身をよじっている。まだまだ若い証拠です、それにくすぐったいくらいだったらこってはいないでしょう、とパンパンと肩を軽くたたいて「おしまい」
私の周辺で次を待っていた方たちからの笑い声がとんだ。

次にひかえし方は、前号でちらりと話題を出した、「私がお世話になっていた居宅介護のヘルパーさんの主任さん。
この方にも大変お世話になった。ここでも内容を詳しくお話できないのが悔しいが、この方は私の無理なお願いや、相談事の全てを解決してくださった。
一番ありがたかったのは、私の夫がすんでいた家が、今は住む人もなく空家となっている、豪雪が続いたここ4年の間にその家がつぶれやしないかと気が気ではなかった。
そこで、ヘルパーさんに、どこか安く雪下ろしをしてくれるところを知らないだろうかと話をしたところ、、その話がその主任さんの耳に入り、早速その話を社共会長まで伝わり、会長の引き入る「除雪救助隊」(名称は確かではありません)出向いていって一気に片付けていただいたという有難い有難いお話があった。

 次に控え仕方は、7月から制度が変わり、新しいヘルパーさんを派遣してくれる担当の職員さんである。
見習いに行った新しいヘルパーさんはいかがでしたか?と心配顔で伺いを立てに来てくれたようだった。
そこまで気を使ってくれなくともと思ったが、実はそのKさんとも他に複数お世話になっていた。
Kさんのご主人には、盲導犬ユーパスと一緒にあっちこっちの学校へ連れて行って行いただいたり、湯沢市の伝統行事「犬っこ祭り」の会場でデモンストレーションを行ったりと私を社会に引き出してくださった方の一人である。
そうゆう訳で、今春湯沢に就任されたその奥様には初めて出会ったような飢餓死なかった。
「柿崎さんのお話は主人から聞いています」との一言で、更に親しみを感じた。

 次の方も、今年あらたに赴任された、私たち湯雄視障協の担当になってくださったIさんである。
就任直後から湯雄視障協の定期総会の各種資料作成にはご尽力いただいた方である。
湯沢に赴任して右も左もわからないうちから、湯雄視障協というひとつの小さな団体から、こんなにも次から次と仕事が舞い込んでくるのか、と思われていたのではないかと思うほどの仕事量だった。
これも 以前は局長がにらみを聞かせていたので、こんなふうには頼めなかった。
稲川支所のAさんが点字資料を全面的に担当してくださって、湯沢のIさんは墨字資料の全てを担当してくださった。
定期総会が盛会裏に終えたのにはこの方たちの影のお力梨ではなしえなかったことである。

まだまだ他にも声をかけてくださった方は沢山いる、今年移動された元地域福祉の課長さん・赤い羽根共同募金公募事業でお世話になった方、その他各種イベントでお世話になった方等々、数え切れないほどの方々からの応援をいただいている。
 こうやって書いていて改めて思うに、柿崎妙子がこんにちあるのも、こういったかたがたからのご支援をいただいていたお陰と改めて感謝の気持ちがこみ上げてくる。
そして、我が湯沢市雄勝郡視覚障害者福祉協会がこんなにも福祉の恩恵を受けながら、見守られていることを確信させられた。

 休むまもなく次々とやってきてくれる職員さんたちと、私以外5名の施術者さんたちとの会話が弾み、その広い畳敷きの部屋は活気にあふれてにぎわっていた。
物静かに腕を動かしている人・さすが と思うような拳打法(軽く握った両手を患者の体をたたくときに、親指のはじく音が軽快直人がでる)、患者さんとの会話のやり取りが周囲の雰囲気を盛り上げてくれている施術者等々施術者にもそれぞれお得意分野があり、それぞれみな自信とプライドをもっている。
ボランティアマッサージだからといって誰一人として手を抜こうな土と思っている人はいないはず。
むしろ、クイックサービスなので短い時間内でいかに楽にしてあげられるかと一生懸命になっているはず。 
一旦手をかけてしまったら誠心誠意尽くしてしまうというのがプロの宿命のようだ。
施術者の中には、肩を骨折してまだ痛みの残っている人もいる。私といえば、そのころは体調が思わしくなく、それに伴い腰痛も発祥しているという最悪な状態だった。
にもかかわらず、……。
そうこうしているうちに、終了の時間がちかづいた。
やはり、介護の職員さんの中には、時間まで間に合わなかった方もいたようで、待っていたけど会えないでしまった方もいた。
と チョット残念に思って帰り支度をして玄関に向かった。
次回へ続く
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by wappagamama | 2013-07-19 11:29

ちょっとうれしいことがあった最近の話その4

これでも大分はしょって書いているつもりだけど、しつこすぎますか?

 前の記事の内容を覚えていない方は、このストーリーの最初っから読み返してみてくださいね。
他人の書いたブログの内容なんて以外といい加減にしか覚えていないものです。
好きな本を夢中で読んでいても、何箇所か読み返さなければ意味が繋がらないことってよくあります。
ましてや、更新日が不定期で気まぐれなわっぱがままのブログです。
面倒がらないで気長にお付き合いくださいませ。(^^♪


前回の記事は、あのころのヘルパーさんたちと十数年ぶりで出会ったところまで書きました。
今回はまたまた新たな展開です。
今年の6月から介護制度が変わり、今までお世話になっていた「友愛」から派遣されていたヘルパーさんたちとはお別れしなければいけなくなってしまいました。
福祉制度が変わったことにより、新たにケアマネージャーさんが着くことになり、よりよいサービス援助ができるようにとのことで、今までとは違うルートからヘルパーさんが派遣されることになりました。
よりよいサービスという名目は何なのかいまいちよくわからないままに、制度に従うしかないのかなと思っては見たものの……。
「友愛」サンとは数回の代替わりはあったけど、本当に気心が知れて安心してお任せできるようになるまでにはそれこそお互いそれ相当の時間がかかる。
これまでのヘルパーさんもご多分にもれずそうだった。
特に6月いっぱいで終わりとなったSさんは、また特別な思いがあった。
「柿崎さんと私同じ「血」が流れている」と言ってくれるほど、長い人生の苦労話の分岐点に発った際、思うことが似ていると物静かで口数の少ない(ここも私と同じ?)Sさんだった。
ジュウタンやカーテンの色柄の趣味も文句なく気に入っていたし。
私の大の苦手な書類確認・提出・買い物の経済観念・日常の食生活に関してはすこぶる勉強になった。
私の血糖値が安定してきたのには、そのSさんの食生活の考えが大きく影響している。
普段はむしろ感情を表に出さず気丈に坦々とクールニ振舞ってはいるが、心の根底にあるものが何か共鳴している感じがしていた。
離婚をして途中から一人で子育てをしたこと。子供の学費を稼ぐために、盆も正月土日も休むことなく、独楽鼠のように働き続けていること。私はそこまではできなかったが、人に頼ったり泣き言など言わず、自分でできることは自分で乗り越えようと思っていた、そんな意地っ張りなところも似ている。
実家の兄と同居していた母親が、施設に入れられると聞いて、自分が引き取って介護していた。
その介護生活も並々ならぬ苦労だったようだが、もともと医療機関に勤務していたことがあったのか、ひとつひとつその手のかけ方にやさしさと貴要さが伝わってくるようなほほえましさが多かった。
その話を聞いていて私はいつも思うのだった。
「自分の親を自分の手で介護して上げられるSさんは ある意味しあわせだと私は思うなぁ」「私は傍に 病気の母親がいても、何もして挙げることができなかったのが今でも心残りだ」と言ったことがあった。
すると彼女は「そうだねぇ 自分もそう思うよ、それができた自分のみのしあわせだと今はそう思う」と言葉少なに私の気持ちも受け入れて理解してくれているSさんだった。
そんなこんなの心のつながりは書ききれないほど沢山ある。
今回のその福祉制度によって、そのSサンともお別れしなければいけない。

返す返すも残念でたまらない。返す返すも もう お別れかと思うと涙が出る。
「だめでもともと」最後のあがき!
何とかしてSさんが我が家に続けてきてくれるように手配できないものかと。
行政の制度には逆らうことはできないとは思っていても、もしかして何らかの糸口があるのではと思いだめだしをしてみたのだった。
言葉で言い表すことができないのが悔しいけど、それまでお世話になっていた担当の主任さんいわく、できなくはないかもしれないけど、そうすると、Sさんのお給料が少なくなるとのこと。
その一言で私の気持ちは決まった。
私がわがままを通せばSさんに迷惑がかかる。私の気持ちは自然に潮のように引けていった。

 Sさんの援助は後二回で終わりという日、気になっていた押入れの整理をしてもらった。
その日は7月から新たに来てくれるヘルパーさんが見習いとして着てくれていた。
押入れの整理と掃除も終盤に差し掛かったころ、Sさんの手賀止まった。
「ウワァ~ すごい すごい 柿崎さんすごいもの見つけた」といって、何やらペラペラ紙のようなものをめくっている。

そして「宮原真紀子・石川美佐子・佐藤恵津子 ウワァ~ なつかしいぃ!」といつも冷静なSさんが、珍しく感情を表に出しながら読み上げている。

私も一緒になって「ウワァ なつかしいぃ」
まさにこれこそが、十数年前にお世話になった我が家の最初のころのヘルパーさんたちの名前だった。
読み上げていたSさん「エェ~? なしてよ? この記録長まだとってあるの?」 すごいすごい
私にとっては大事な宝物なのである。
私が治療院として、盲導犬とともに新たな人生の一歩を踏み出した、ここの家からのスタートしたときに、心身ともに、微に入り際に入り、助けていただいた人たちなのだから。
時にどこにしまったか忘れてしまうときもあるけど、一昨年娘が大掃除をしてくれていたときにそれを見つけてくれて、「まきちゃんだ・えっちゃんだ・みさちゃんだ」と娘も同じようにこれは妙子の宝物だから大事にしなさい。
私の目に触れることはなくともこのようにして誰かの目に触れたときに、誰もが何かを感じると思う。
今回、たまたま最後のお勤めの日に、Sさんの目に触れたこと、そしてその様子を傍らで何もわからない新しい見習いヘルパーさんが見届けてくれていたこと、これもきっと何かのご縁かもしれない。

そして、この日の出来事を、Sさんは事務所でその話をしてくれたらしい。
話を聞いていたメンバーの中に、記録長に出ていた名前の方もいたのではと思うようなことが、偶然にも翌日私の出かけ先で感じるものがあった。
次回へ続く
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by wappagamama | 2013-07-13 13:58

チョットうれしいことがあった最近の話その3

 あれから14年。
ヘルパーさんも何回か代替しました。
視覚障害者に対しての援助の仕方、たとえば家の中の物は全てもとの場所に戻してほしい・特に包丁などの刃物などは使ったまま放置しないでほしい・買ってきたものの説明とおき場所を説明してほしい等等、最小限度守ってほしいお約束事がある。
それらのことをその都度こちらからお願いしたり説明をしなくともチャントわきまえてやってくれるようになるまでにはそれ相当の時間がかかる。
それはそれでこちらも援助を受ける側なのでそれくらいのことは時間的ゆとりを持ってかからなければいけない。
ところが、たまたま予約の患者さんが立て込んでいて、こちらの予定通りには行かないことも多々起きる。
問題はそんなときのことである。
慣れてきているヘルパーさんとそうでないヘルパーさんとではこちらの耐応と気持ち的なものが大きく違ってしまう。
そんなこんなの状況に応じた対応の仕方はこちら側もそちら側も大きく違ってくる。
ヘルパーさんが帰った後に仕事が終わって気づくとエルモがいないこともあった・流し台に置きっぱなしになっていた包丁で思いっきり指を切ったこともある。治療かとしては最悪の状況になる。
それから、踏み段の下にいつもと違うものが置いてあったので、足の小指を骨折したこともあった。これも仕事に大きく影響した等等色々あったがヘルパーさんにはそのまま正直には伝えてはいない。
支援を受ける側にも礼儀とか遠慮とか気配りは必要だと思うのでそれなりの配慮はしているつもり。

 でもなんてったって、そんなことよりありがたかった事・涙が出るほどうれしかったこと・家族だったらここまではできないだろうと思うようなことまで沢山沢山色々してもらった。


 
 ここまで書いたのでもうひとつありがたかったお話を書かせていただきたい。
DVのため別居して20年ほど、全く行き来をしていなかった、私の夫が、余命6ヶ月と意思から宣告された。
その事実がわかったのは、20年近くも連絡を途絶えていた夫からの突然の電話だった。突然の電話で絶句している私に「ごめんな 突然電話してごめんな」と誤ってから、「あのよ 俺これがら病院さ行って来る」とのこと。
聞いてみると何回か検査した上で入院治療することになったらしい。
突然電話したことに気兼ねをしながら「まずいって来る柄 しんぴゃしにゃっ立っていい柄な」と精一杯元気ぶっているその声は尋常じゃないのかもと瞬間的に察知した。
平常心を保とうとしている傍らで、何でいまさらと複雑な気持ちとともに、なぜか受話器を置いたとたん、娘に電話をしていた。

東京にいる娘が半年間の休職をして父親の家出看病を始めた。
私にとっては大変ありがたいことだった。
ところが、病気をしている本人は、余命の宣告を聞かされていないものだから、突然の娘との生活に有頂天になって喜んだのは最初のうちだけ。
もともとわがままな性格の父親の本領が発揮されて、本当のことが言えない娘も我慢の限界になり、まもなくバトルが始まった。
一生懸命健康の管理をして食事に木を使っている娘に対して、それまで一人暮らしで自由に暮らしていた父親は、そんな娘のすることなすことに注文をつけるようになっていたばかりか、「親のゆうなりにならないわがままな娘だ」と私に愚痴をこぼしてくるようになっていた。

娘は娘で、自分だけ何でこんな思いをしなければいけないのか私に当たるようになっていた。
それもそのはず、そのころはわが治療院はちょっとした流行っている治療院ではないかと勘違いするほど、なかなか休みが取れない状態となっていた。
何とか都合をつけて土日休みを取ってそちらのほうへ一泊の計画を立ててリュックに準備をしているうちに必ずといっていいほど体がだるくなり熱っぽくなるのだった。寝苦しい夜が明けて出発の準備に取り掛かろうとしても、体がゆうことをきいてくれない。
dvを受けていたその家に行こうとするだけで私の体は無意識のうちに反応している。
朝、娘に熱が出てしまってそっちにいけないのでごめん、悪いけど父さんにそういって」と同じようなことが3回も続いた。
娘はぶっちぎれた。
しかももっと悪いことに、そっちで私の夫は何日も前から準備をし、私の好物の「ぼた餅」を山ほど作って待っているのだとか。
お陰で毎日それを食べさせられるこっちの身にもなってよ。と腹の立つことばかりが目に見える。
とうとう娘は私に口を利いてくれなくなった。
そんなこんな複雑な事情を知ったヘルパーさんは、「柿崎さんが父さんさやってけでゃゃど思うごど何でも言ってけれ、私たちでできることは何でもやる柄 柿崎さんが後悔しにゃように私たち応援する柄」とその言葉は今もわたしの耳にはっきり残っている。
過去に口に出してはいえないことの多かった人生を送ってきて、今 いろんな意味で悔やんでいることばかり、積年の思いは募るばかり。
それでも思うように行動ができずあせっている私の心のそこを見抜いているかのように、ヘルパーさんは誠心誠意私に尽くしてくれた。
私にはそういった応援団が存在していた。でも娘は自分自身の考えと行動だけが父親に対する最後のお勤めだと思っているはず。それを思うと娘の気持ちが痛々しいほど伝わってくる。「だれかたすけてよぉっ」て泣いていたはず。
わかっていても私にはどうして挙げることもできなかった。今だからごめんなさい。
でもそのときのことを娘に話をすると「えっ? 覚えていない うそでしょ」といわれる。
人間究極の時のことは記憶から消し去ってしまうということがあるらしい、もしかしてそれなのかな?と思ったりもするが… だとすれば その時の彼女にとってはそれほど辛い事柄だったのかな共思ったりもする。
ここには書ききれないほどの積年の思いがある。
だからこそ今余命を告げられた夫に対してよりも、むしろ自分に対しての積年の思いが怒涛のように押し寄せてくる。



色々言葉にはできない複雑なことが沢山あった。
そんな時、ヘルパーさんたちは何も言わないで私に誠心誠意尽くしてくれた。

今思い返しても暑いものがこみ上げてくる。
そんなヘルパーさんたちとつい先日十数年ぶりで再会することができた。
次回へ続く
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by wappagamama | 2013-07-03 20:24

チョットうれしかった最近の出来事その2


前回の記事は平成11年の年のことです。
  いきなり 重い話でスタートしましたが、過去にも2回くらいは同じようなお話を記事にしたことがあります。

 このような悲惨な時期が1年 いえ 2年ほど 続いた廊下…
湯沢市内あっちこっち歩き回りました。
湯沢市内の公共の場所あっちこっちへ出向きました。
湯沢の行政にも何回も足を運びました。
心も体も萎えてしまいそうになりました。
あきらめようと思ったこと幾たびか… …
障碍者が人の手を借りずに単独で何かをしようとする姿を見たことがないから、このような対応が平気でできるんだと思い、だったらそんな封建的な風習を逆手に取り、障碍者が単独で行動する姿を見てもらわなければ何も前に進まない。
どんなものかを見てもらおう。どんなに冷淡で無神経な人でも、目の見えないものが一人で行動を起こすというのには何かそれなりの訳があるはず。
あっちこっちぶつかったり転んだり恥ずかしい思いをしながらも、一人で行動している姿を見ているうに、何か感じてくれるかもしれない。
そんな姿を見ているうちに、何が困っているのか、何かをしてあげればよいのか、あるいはまた声をかけてもよいのか、というふうに、周囲の人の心が変わってくれるかもしれない。というように 私の腹の中には密かにこんな願いを抱いておりました。
と、、今だから計算づくのように行っていますが、そのときはただただ無我夢中といったほうが正解でしょうね。

 そんな苦労が少しずつ実り、居宅介護のヘルパー制度を利用できるようになりました。
週に二回、買い物・掃除・などなど生活一般の援助をしていただけるようになりました。
盲導犬とともに生活をしているため、抜け毛など、患者さんの出入りに悪印象を与えないように見とどりをしてもらったりと、規則に従った一般的な援助をしていただいておりました。
そんなある日のこと、ヘルパーさんを派遣してくれている湯沢市の社共さんの担当職員さんのほうから「学校へ行って盲導犬のお話をしてもらえないか」とのお話がありました。

盲導犬の貸与を受けられたのは、盲導犬協会のお陰です。その周辺には多勢の方たちの善意と熱意がこめられております。
貸与を受けられたわが身の幸運に感謝をし、何かの形でお役に立つことができるのならと思い、学校の仕事をお受けすることにいたしました。
こんなことは全くの素人です。
大体人様の前で何かお話しするなどということは皆目見当がつきません。
でも、傍には盲導犬ユーパスクンがいてくれることだし、それだけでもいいか というような気楽な気持ちでした。(ホントはウソ)
その時を皮切りに、社共さんは学校のお話を次々と持ってきてくれました。
それから数年、街を歩く私とユーパスの姿は周囲の人の目を引くようになっていました。そして、小学生たちとのふれあいは街のイベント会場などで集まってくるようになりました。
そんな時、盲導犬ユーパスとの日常の生活、鳥海山登山・北海道研修会・東京旅行、日常の小さなしあわせ等々感動の出来事を山ほど体験しておりました。
そのつど携帯電話でスナップ写真を写していました。
それらの写真を大きな模造紙に貼り説明とデザインを書いて展示用に作ってもらいたいと、ヘルパーさんにお願いしました。
数年前のあの屈辱と惨めな生活とは一変した生活を誰かに知ってほしいという思いがあったのかもしれません、イエ 現在の幸せを誰かに知ってほしいという思いのほうが強かったかな。
ヘルパーさんたちはみんなユーパスの大のファンです。
時間内で間に合わなくて事務所に持ち帰ってその作業をしてくれていました。
ヘルパーさんたちはとても楽しそうにその作業をしてくれていました。
そんな様子を見るに着け、私の気持ちはエキサイトしていき、仕上がりを想像しては大いに気持ちがハイになっていきました。
その写真の展示物は、ふれあい広場のマッサージコーナーで展示するためのものでした。

 とそんな時、そんな気持ちに水が刺されました。
そうです、個人の仕事を事務所まで持ち込んだことで上司からお目玉を食ったようでした。
さにあらん、規則とか決まりごととか超えたことはいけないことです。
仕方がありません、できる汎胃以内でいいからね?、無理はしないでね?と何度も念を押して頼んでいました。

どのヘルパーさんもどのヘルパーさんも「ハイ わかりました 心配しないでください」といって私を安心させてくれました。
でもやってくれる仕事といえば、どうしてこんなことができるの?と思うほど時間内ではこなせるはずがないというほどの仕事ぶりでした。

それから何年か過ぎ、ヘルパーさんのメンバーが代わりました。
その時代時代でヘルパーさんたちの耐応と仕事の許容範囲が変わりました。
それでもその都度ヘルパーさんたちとの関係は、(?)ユーパスクン・エルモクンの愛くるしい姿にはどのヘルパーさんも仕事を超えた心のお付き合いができていることは、最高の幸せです。(なんか ここんとこは 文症状本当のことが言えないのが歯がゆいです)
次回へ続く
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by wappagamama | 2013-07-03 14:49

ちょっとうれしかった最近の話その1

この話を書くのにあたって若干考えました。
考えればこの話は十年ほど前いえ もっと前からでしょうね…さかのぼらなければ書けない内容だからです。
と聞いただけで、「パス」といって見送るご愛読者もおられるかもしれませんね。
まあまあ そういわずにお付き合いください。


 私が箱館視覚障害センターを卒業して、鍼灸マッサージ師として開業をはじめ盲導犬と「ににんごきゃく」で新しい生活をスタートしたときからのお話です。
ほとんど全盲という視力をあてにできなくなってから、新しい町内での生活だったため、正真正銘右も左もわからない状態でした。
スタートしたとはいっても治療院は勿論開店休業状態。
それ幸いと盲導犬ユーパスとの歩行訓練に余念がありませんでした。

 右も左も何もわからない状態から、盲導犬ユーパスと、連日のように街へ出て歩く訓練をしている姿を町の人たちは見ていてくれたのでしょうね…。盲導犬が私のところへ来る前は、あっちこっちにぶっつかり・迷ったり・落ちたり自転車を将棋倒しをしたりと散々でした。
生まれ育った街なのに親戚や同級生や知り合いがわんさかいるはずなのに、誰一人としてそんな私に声をかけてくれる人はいませんでした。
「あやぁ~ しっかだねごどぉ?」「(あらぁ かわいそうに)的なおもいで、気の毒のあまり声をかけるのすらできなかったのではと今考えれば理解できないではありません。

 そればかりか、生活していくうえで必ず必要な手続きなどのため行政や・銀行や・公共の機関や・交通機関などことごとく行とこ全てが、冷淡ないえ、冷酷な扱いでした。
市役所の市民化では「目がみえにゃなさ なしてひとりできたなぎゃ? だれがかぞぐど一緒に来るが んでねば かぞぐのひとさ頼んだらえんしべった」この言葉には開いた口がふさがりませんでした。
タクシーでは、「まなぐめにゃなさ 一人で出歩いだってだめだ あぶにゃべった黙ってえさえだらえべった」とそれはまるではき捨てるような強い口調でした。これも後で築いたのだが、私のことを心配してくれたというより、周囲の車に迷惑だという意味のほうが強かったのかもしれない。
こんな冷酷な暴言は日常茶飯事でした。

 
全盲で 一人暮らしということで、行政からさまざまな支援を受けられると、箱館で学んできていたので、そのためのお願いなどで窓口に通いました。
その耐応は箱館でのその類の耐応とは雲泥の差でした。
まず行政側が何も知らないということ。聞いても調べてさえくれようともしないこと
まるで物貰いに北「乞食」でも見るような目つきで頭っから馬鹿にしていました。
湯沢に帰ってくる前、箱館の先生に「湯沢は箱館より30年遅れていると思いなさい」といわれてきました。
その先生の言葉通り、ことごとく行き先々で会う人ごとに、その言葉を証明させられました。
「あぁ~ 箱館に帰りたいぃ」と望郷の念にさいなまれました。
息子と娘二人の子供たちがいなかったら、もしかすれば私は今頃箱館の人になっていたかもしれません… …
次回へ続く
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by wappagamama | 2013-07-03 10:44