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ボランティア懇談会で行った視障協Pr内容


ボランティア懇談会の発表

活動内容:会員のより積極的な自立を目的に社会参加の促進を図り、一般市民との総
合理解を深め、視覚障がい者の福祉向上と住みよいまちづくりに努力する。
◇定期総会、自然観察会、研修レクリェーション、盲青年社会生活教室、盲婦人家庭
生活訓練事業、地域交流事業(ボランティアマッサージによる交流)、サウンドテーブルテニス(盲
人卓球)大会、住みよいまちづくり運動、パソコン研究会、視覚障がい者への理解と
盲導犬普及啓蒙キャンペーン・学校教育現場での体験学習

以上は、当日の資料として、参加者に配られてる情報なので発表の際は省きました。

「ここから発表内容」
 日頃より視覚障がい者福祉の推進につきましては深いご理解を賜り厚く御礼申し上
げます。
 さて、本会では視覚障がい者及びそのご家族を対象に多種多様な活動を行っております。
本日ここに、長年にわたって私たちの活動に応援していただいている方々からお声を掛けていただき、とても心強い思いです。
年間の各種イベントの際には、このような皆様方からの暖かい応援のお陰で、とても素晴らしい環境の下で活動することができるようになりました。
ところが大変残念な子とに、湯沢市内の視覚障害者手帳保持者の全体の5パーセントに過ぎない会員数にとどまっております。
視覚障害者はとかく孤立しがちです。その理由として、情報が行き届かないということ。そして、外出が困難ということが大きなバリヤーとなっております。
当会の存在すら知らない人ばかりです。
また、会員さんの中でも、家族の都合で送迎してもらえなかったら参加することができないという原情です。
ご本人は首を長くして待っているイベントでも、あきらめるしかないという事情にとても心を痛めております。

それと、もうひとつ、当会の事業の執行部は全て、私たち視覚障害者だけで運営しております。
視力の程度は人それぞれ違いますが、ほとんどの人が進行性の眼病のため、総会資料などの作成は困難極まりない状況となっております。
パソコンに音声そふとを使用しての作業ですが、家族のサポートにも限界があります。

障害者団体だからといっても私たちのコノ協会は、決して他力本願ではありません。
活動内容をごらんいただければお分かりいただけると思いますが、学校教育現場での
体験授業などを通して、子供のころから障碍者に対して理解を深め将来的に子供たち
が社会に繁栄してくれることを願って、積極的に活動しています。

障害はあっても社会のお役に立てることも私たちの生きがいでもあります。
正直言ってボランティアを受ける側だけに徹しざるをえなかった時期もありました、でもそれは過去のことです。
湯沢市内の福祉環境は大きく変化しました。
本日ここに参加されている方々のお話を伺って、その思いは更に強くなりました。
私たち視覚障害者の福祉向上のためにも、皆様からのご理解とご支援をよろしくお願いい申し上げます。


●発表の時間の制限があり若干割愛した部分もありますが、ほぼ忠実に書いてみました。

当日の会の流れの事情がわからなかったので、壇上に上がる際、事前にお願いしていなかったということもあり、スタッフの方がサポートの必要性に気付いてくれ、壇上に上がりマイクの位置を説明してもらうまで、少し時間がかかりました。
しかし、そのドタバタ劇を逆手に取り、視覚障害者の事情を一言説明してから発表に入りました。
知っている場所では盲導犬と歩けるけど、こんな距離でも初めての状況では、サポートなしでは一歩も動けないということを、会場の皆さんに見ていただきました。
湯沢市内で活躍されている30以上の団体のスタッフはほとんど晴眼者、盲導犬同伴でそのような会場に参加したのは初めて。
それでも、普段お世話になっている方々の多かったことに、改めて感慨無料名ものがありました。

コノ貴重な経験をきっかけに、湯沢市の福祉発展に、そして、視覚障害者の更なる福祉向上にお役に立てることを念願いたします。
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by wappagamama | 2012-03-31 14:12

第1回湯沢市ボランティア懇談会」各団体の熱い重いと期待で熱気ムンムンの中開催された




湯市社発第44号
平成24年3月7日


湯沢市内 ボランティア団体・福祉団体・NPO 各位


社会福祉法人
湯沢市社会福祉協議会
 会長 菅  義 雄
       (公印省略)


平成23年度湯沢市ボランティア団体懇談会の開催について(ご案内)


 早春の候、皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 平素より、当会事業推進につきまして多大なるご尽力を賜り深く感謝申し上げます

 さて、湯沢市においてボランティア団体、福祉団体、NPO、市民活動により多種
多様な活動が活発に行われており、今後の活躍も大いに期待されております。
市内の各団体数も増加している中で、一同に会し情報を共有しお互いを理解しながら
、普段の自分たちの活動をPRする場として標記懇談会を開催することとなりました

 つきましては、年度末のご多忙なところ恐縮ですが、多数の皆様にご参加いただき
たく別紙申込書に必要事項ご記入のうえ平成24年3月23日(金)までご連絡ください
ますようよろしくお願い申し上げます。
 なお、当日標記懇談会後、昼食は挟みまして同会場にて共同募金パートナーミーテ
ィングを開催いたしますので併せてご出席くださるよう重ねてお願い申し上げます。

1.開催日時 平成23年3月30日(金)
 午前10時~正午
※昼食後、共同募金パートナーミーティングとなります。(受付9:30~)
2.場所 サン・ミッシェル教会アヴィニヨン
     湯沢市沖鶴92 TEL0183-78-2700

3.団体PR 各団体に3分程度の時間で活動内容などお話しをしていただく予定で
す。(参加団体数により多少時間が異なる場合があります。)

連絡先:湯沢市共同募金会事務局(担当:後藤)
電話:73-8696 ファックス:73-3558
                     以上。




以下より「共同募金パートナーミーティング」開催通知



湯市共募発第4号
平成24年3月7日


湯沢市内ボランティア団体・福祉団体・NPO 各位


湯沢市共同募金会
会長 菅 義 雄
 (公 印 省 略)


共同募金パートナーミーティングの開催について(ご案内)


全国的に年々減少傾向にあります共同募金でありますが、ここ湯沢市では皆様のご協
力により実績額は昨年度より上回っており、地域福祉を担う貴重な財源として今後も
大いに期待されております。
また、共同募金のあり方につきましても、全国的に改革が進んでおり高齢化、少子化
に伴い、介護や子育て支援の問題などに対応するためには住民参加による福祉コミュ
ニティづくりが不可欠であり、そのコミュニティづくりを積極的に支援する取り組み
が全国で始まっており、ここ湯沢市でも助成金の一部を公募する事業を平成24年度よ
り開始することとなりました。
ボランティア団体懇談会と合わせまた、公募助成金の説明会を兼ね、標記パートナー
ミーティングを別紙要綱により開催することとなりました。
 つきましては、ご多忙のところ大変恐縮ですが、多数の皆様にご参加いただきたく
別紙申込書に必要事項ご記入のうえ平成24年3月23日(金)までご連絡くださいます
ようよろしくお願い申し上げます。
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by wappagamama | 2012-03-31 10:49

エッ!!! 視覚障害者が運転席で車ドライブ??


自動運転カーの最新映像を公開 視覚障害の男性を乗せてドライブ

 Googleが2010年に発表し、開発を続けている自動運転カー。既に20万マイルのテスト走行をこなしているという。同社はその中から「お気に入りの瞬間」の1つをYouTubeで公開した。
 公開されたテスト映像では、視覚障害のある男性スティーブ・マハンさんが運転席に乗り、助手席にGoogleのスタッフが座っている。自動運転カーはプリウスをベースに、車の上に回転するセンサーを搭載、車体にはGoogleロゴがついている。
 マハンさんが乗ると車は走り出し、誰も触れていないのにハンドルが回る。ドライブスルーで買い物し、クリーニング店で服を受け取り、車はマハンさんの自宅へと帰る。「これまでで最高のドライブだ」とマハンさんは言う。
 Googleはこのテストは技術的な実験としつつも、「技術・安全基準を満たせば、自動運転技術はいつか運転手になるかもしれないと期待できると考えているとしている。この技術が実現すれば、マハンさんのような人にも大きな恩恵になるだろう。
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by wappagamama | 2012-03-31 10:23

「あ は き師・鍼師・灸師」国家試験合格発表 その他


    ーー 第20回あはき師国家試験の合格者発表 ーー
    ーー 視聴覚障害者向け放送充実研究会開催 ーー



    ーー 第20回あはき師国家試験の合格者発表 ーー
 第20回あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師国家試験の合格者が28日、財団法人東洋療法研修試験財団から発表された。試験は2月25、26の両日、全国57会場で行われた。今回の各区分別受験者数、合格者数、合格率は次の通り。
 「あん摩マッサージ指圧師」受験1777名、合格1495名、合格率84.1%(前年合格率87.0%から2.9ポイント下降)。「はり師」受験5015名、合格3651名、合格率72.8%(前年合格率83.0%から10.2ポイント下降)。「きゅう師」受験4996名、合格3498名、合格率70.0%(前年合格率83.6%から13.6ポイント下降)。(日盲連)

    ーー 視聴覚障害者向け放送充実研究会開催 ーー
 「第3回デジタル放送時代の視聴覚障害者向け放送の充実に関する研究会」が28日、東京・霞が関の総務省会議室で開かれ、日本盲人会連合からは鈴木孝幸情報部長が出席した。
 会議は総務大臣政務官の挨拶に続いて、主な検討項目について意見交換が行われ、鈴木情報部長は第2回研究会で検討が必要とされた事項から「解説放送の区分・定義が明確でない」「緊急字幕放送やニュースのテロップを、副音声化等で視覚障害者にもわかるように」「テレビの文字情報の音声化」「外国語放送は副音声等により翻訳音声で」「データ放送は音声と点字の両方で」と発言。
 解説放送を充実し視覚障害者が健常者と同じようにテレビを楽しめるように、特にニュース報道番組、ドラマ、ノンフィクション、スポーツ番組に力を入れ、目標数値を達成するよう放送局を監視して欲しいと強く要望した。
 さらに「5.1チャンネルサラウンドやワンセグ放送で解説放送は聞けるのか?」「テレビの音声をラジオ受信機で聴いていた多くの視覚障害者が地デジ移行により突然聴けなくなったことへの対応は?」との質問を行ったが、回答は当然、納得のいくものではなく、更なる研究・開発を要望した。(日盲連)
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by wappagamama | 2012-03-31 10:10

ある情報誌から…

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東日本大震災から1年が経ちました。
ロメロ ホルヘ
いつも外国からの情報を持ってきているロメロです。今回は日本の情報がメインです。


私は、去年3月11日の午後は、北海道にいました。一人で家でパソコンで仕事をしていました。
3時ごろ、突然地面が揺れ始めました。「また地震か!」と思いました。その二日前にも昼過ぎに地震も感じました。

地震は2時46分に起きたそうです。なぜ私が3時ごろだと思っているかは、今でも自分でもわかりません。大きな事故または出来事があると、人の、時間についての間隔が狂ってしまうという話は本当のようです。あるいは私がいたところに振動が遅れて伝わってきたかどうかもわかりません。

私がいたところでは、震度4でした。
「最近地震が多いな。この地震は途中から強くなるかな」と心配して、様子をみていました。
しばらくしても、私がいたところでは地震が強くならないので、すこし安心しました。しかし、2分、3分いくら経ってもまだ地面が揺れているので「これはいつもの地震ではないなあ」と思い始めました。

私が生まれた国には地震がありません。ですから、初めて地震を「体験」したのは、約23年前、日本に来てからです。
これは「地震体験」と言えるでしょうか。
そのときも一人で東京にいました。紙1枚はどこかから落ちたことにしか気づきませんでした。その後友達が来て「地震があったよ」と言いました。私は「冗談だよね。気づかなかった」というと、友達は「震度5だったのに気づかなかった?」と言いました。
全部一緒に揺れるので、不思議に、私にとって初めての地震には気づかなかったのです。しかし、21年前、日本に移住してからは、4年間茨城に住みました。そこには地震が多いから、体がすぐに地震に敏感になりました。
茨城に住んでいたときは、びっくりするほどの強い地震を体験しました。しかし、周りにいた、茨城の人はびっくりもしなかったので「この程度の地震なら大丈夫」と考えるようになりました。それらの地震は約1分以内に終わっていました。

ところが、去年3月11日の地震は、いくらまで待っても続くので「これはかなり異変だ」と心配し始めました。
仕事を中止し、パソコンが倒れないように手をパソコンの上に置きました。人が緊張すると間違いをしやすいので、とにかく落ち着こうとしました。
椅子に座ったまま揺れが止まるのを待ちました。右には、大きな窓がありました。1回だったから「もし家事になったらすぐ逃げられる」などと考えていました。外からは、家の前の公園で遊んでいた子供たちの声が聞こえてきました。子供たちは怖がっていないような様子でした。
いくら待っても揺れが止まらないので、北海道では震度がそんなに強くないのに「これは世界の終わりかな」と思いました。そしてまだ地面が揺れていたときに「この地震は歴史的な地震だろう」と感じるようになりました。

揺れが止まったとき、すぐにテレビをつけました。「地震は、こんなに長く続いたということは、ほかの地域ではとても強かっただろう」と思ったからです。テレビを聞いていると、初めて地震と津波の怖さを知りました。

妻は子供と一緒に北海道で友達の家にいました。私は妻に電話をかけませんでした。「北海道は大丈夫。ここはそんなに揺れていないし、この町は海からかなり遠いから、津波の心配もない。今電話したら、電波が込んでいて救助活動を妨害してしまうかもしれない」と思ったからです。数分後、妻から電話がかかってきたので、私たちは大丈夫だということを確認しました。そしてすぐ電話を切りました。

約1・2時間後、原発の話が出ました。具体的に覚えていませんが「ちょっと異変があったが放射能が漏れていない。ただ義務付けられているので国に報告した」という程度のニュースでした。私は、福島に原発があったことを、そのとき初めて知りました。それから「なぜか」3キロ以内の批難が始まったことを聞きました。

1999年に茨城でも原発の自己があったことを知っていました。そのときは私は埼玉に住んでいました。またその前に、筑波に住んでいたときに、筑波には「高エネルギー開発センター」があることも知っていました。
ある日、ある先生は「ロメロ君、『高エネルギー開発センター』の意味がわかりますか」と聞いてくれました。私は「それは放射能研究所でしょう」と答えました。
先生は「その通り。だけど『放射能』という単語を使うと、多くの人の反対が予想されただろうから、『高エネルギー』という単語が使われた」と説明してくれました。私は「なるほど。どんな国でもそうかもしれないけど、国民はあれこれよく調べないとだめだな」と思いました。しかし、その開発センターのことをあまり心配しませんでした。研究が目的なので、自己があっても大きな問題にはつながらないだろうと思いました。

日本の原発の状況を知ったのは、2011年3月12日でした。南米に住んでいる父から電話がかかってきました。そして電話に出ると「お願いがある。帰ってきて」と言われました。
私は「何?」と聞くと、父は「批難は10キロに広げられた。テレビで見たよ。日本の地図を見せられて、その地図に原発の場所がマークされていた。原発があちこちにあるよ」と説明してくれました。
私は「そうか!」と思いながら「でも、こちらは福島から遠いよ。大丈夫だよ!」と言いました。
すると父は「北海道にもあるよ。日本の北にも原発がたくさんあるよ」と教えてくれました。
私は「帰るのは面倒くさいなあ」と思いながら「わかった。ここから直接は帰れないから、何をするかを検討する」と言いました。
母に電話が変わりました。母は「お父さんはうるさいね。そっちは遠いでしょう?大丈夫だと思う。信仰を持っていなければならないよね」と言ったので、母との会話がスムーズに進みました。
私が帰る様子がないので、3月13日、14日、15日、妹、おじ、南米にいる親戚から次々「帰ったほうがいいよ」という電話がありました。また、日本の友達からも「やばいよこれ!外国でどんなニュースが流れている?」という電話もありました。
原発事故については、日本では、人がパニックにならないように全てのことが伝えられていないかも知れないとも思えましたが、外国のニュースを聞くと、明らかに大げさに言っているとも感じました。ただ、韓国とアメリカはその国民には原発から80KG離れるように要請したニュースが日本で流れたときは、日本の自己についての理解とアメリカの理解がかなり食い違っているなと思いました。

結局私は帰りませんでした。たくさんの外国人が帰りましたし、私が生まれた国は「帰りたい人には航空券を無料で譲る」と、大使館から聞きました。私にだけでなく日本国籍の妻にも子供にも国が航空券を買うと言われました。しかし、私が帰ったところで、むこうで何もすることはありません。
日本に21年前から住んでいるので、「前に住んでいた国に帰る」というようなことは、再度の移住そのものです。もう移住できるような歳ではないと思います。帰ってずっとむこうに住むようなことは、経済的にも精神的にも大変だろうと思います。
妻も子供も日本人です。日本には私の住む場所がありますし、私の仕事もありますし、日本で年金をずっと前から払っています。
ですから「万一日本が『沈んで』しまったら、私も日本人と一緒に『沈んで』しまうしかない」と思いました。
被災に遭い、子供、親、配偶者、大切に思っていた人または物を失ってしまった人がたくさんいる中で、何も損しなかった私は自分だけの道を歩んでしまうわけにはいかないとも思いました。

もちろん私は不安ではないわけではありません。2歳の娘が牛乳が大好きで、夜中に起きて「牛乳ほしい」と頼みます。牛乳を飲ませないと、大騒ぎになります。
乳スで牛に与えられたえさが原因で牛肉が放射能に汚染されている問題を聞いたときは、牛乳については話が全くでないことに驚きました。だから、娘に牛乳を飲ませるたびに、栄養を与えているか、毒を与えているかがわからないような気がします。

地震が避けられないことですし、津波もかなり避けられにくいかもしれません。しかし、原発がなければ、原発事故が絶対にありません。既にドイツ、スイスやイタリアは原子力発電所をやめることにしました。日本もその方向に進んできているのではないかと思い、いささか安心です。

原発を再稼動させるかどうかは建前として、事実上、日本のほとんどの原発が停まっていますし、再稼動は考えにくいと思います。東京電力は原発事故のせいでかなりの資産を失い、株もかなり下がったので、どんな電気会社も再稼動に興味がないだろうと思います。再稼動したら、すぐに株がかなり下がるはずです。

ところが、日本では再稼動はないと思い安心していたら、数日前に「再稼動がありうる」と聞いてびっくりしました。大きな地震の可能性が広がったとされ、こんな大きな事故を目の前に、こんな原発事故で批難した人がいつ帰れるかについてのめどが立たないにもかかわらず、日本に既に原発の再稼動をほしがっている人がいるようです。

この地震、津波や原発事故で、私たちはみんな変わったと思います。もう日本人が恐れるのは「地震、雷、火事、親父」ではないと思います。
今恐れるのは「地震、津波、火事、原発事故」ではないでしょうか。

今後も東日本大震災の程度の大きな地震が襲ってくるかもしれません。その際に被害を極端に抑えることができるように、この地震のことを決して忘れず、みんなで日本を守るこ
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by wappagamama | 2012-03-28 15:11

めんめんそ(お手玉)

「めんめんそ」って知ってますか?。
子供のころ私たちはお手玉のことをこういっていました
これはこの辺の方言なのかもしれません。
布切れを使ってお人形さんや着せ替えの洋服を作って遊ぶことを「きびちょっこ遊び」ともいいました。
母親の裁縫道具を使って、古布や古着を切り刻んで、めんめんそや人形さんや着せ替えのふくっこなどを作って遊んだ遠い昔を思い出す出来事があった。

 

 1週間ほど前うららかな陽射しを受けて、窓の下の雪山の雪けしをしていたときのこと……。
二人の老齢の女性が我が家の駐車場に入ってきて「この人だ コノ人だ おめのいってる妙子ちゃんってこの人だよ?」
額に汗をにじませて、雪山をスコップで崩しているときの琴田った。
ひとりのひとが、私の顔を見詰めながらつかつかと傍にやってきて「あやぁ~妙子ちゃん ひさっしぶりだごどぉ~? しげちゃんとえこちゃんさにでるぅ~ おれ しずこだ」
確かに聞き覚えのある名前だった。10歳年上の姉の口から時々聞く名前で、母方の遠い親戚の人だった。
私には10歳年上の姉の上にもうひとりの姉がいた。
その姉の名前が「しげ子」
その姉は、まだ子供たちが小さいころ30代という若さで病死した姉だった。
父方・母方どちらも初孫だったというその姉は、親戚中からかわいがられ大事に育てられ、やがて両親や兄弟たちからは勿論、親戚中から頼られる人となった。
誰よりも悲しんだのは母だった。
あのころの母の悲しみは私たち兄弟が計り知れないほどの大きなものだったと思う。
でも 今思い返せば、あのときの母は私の目から見たら毅然としていた。
姉が亡くなって1年もしないうちに、私の嫁ぎ先が全焼し、その直後に出産というめまぐるしく大変な時期だったということもあり、行き先のなくなった私と赤ん坊を守るために真剣だった。
 頼り切手いた長姉を喪った深い悲しみを隠して、新しい命を守るために真剣だった母の思いは、まだまだ私の及ぶところではないとは思うが、それにつけても・半世紀以上も過ぎた姉の親しくしていた友人たちから声を掛けてもらったうれしさ……

 その二人の老齢の女性は私のしげ子姉と高校の同級生とのこと、我が家のご近所のところに遊びに来ていたもうひとりの女性は私の遠い親戚。
昔からしげこ姉とは親しくしていたことを知っていた。
子供のころの10歳以上年上といえばもうとても大人で私なんかの入り込む余地などなかった。
でもいまはどちらも高齢者。
いとこやまたいとこ遠い親戚あそこのうちの嫁さんは何処そこの親戚から来た人だとか、だれそれは今何処で何をしている打とかしゃべってもしゃべっても話が尽きない。
ほとんどそっちのお姉さまの方からの情報の方が多いのだが、コノ年になった私でもそんな話題についていけてる自分がいた。
いやいや でもでも 奥が深い!
古い話になれば私の知らないことばかり。
でもでも 年上の人たちは、年下の人たちのことを良く知っているということに感心しきり。
結局再びしげ子ネエチャンの話に戻り、懐かしい話は尽きなかった。
半世紀を超えた濃厚な時空に浸っていたら、なにやらゴソゴソバックをまさぐり、「ほれっ こんたなつくって遊んでいる灘? おめさけでいぐ」
といって手を握って5個のお手玉を手渡してくれた。
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by wappagamama | 2012-03-14 16:43

共倒れの危険が一杯の老老介護

 姉はとても明るく働き者で社交的な秘とである。

が私と違ってとても素直なところがあり、「純粋無垢」といえば言い過ぎかもしれないが、喜怒哀楽がわかりやすい人である。
「天然系キャラ」といった方がわかりやすいかも…。
うれしいことに関してはとても素直にその喜びを人に伝えたがる。
うれしいことは何回も繰り返しうきうきした声で話している。
そんなときが姉の最高の私服のときのようだ…。
 それが、息子自慢であったり・孫自慢であったり・自分の趣味の自慢であったりとその材料に関しては枚挙にいとまがない。
繰り返し聞かされているこっちにしてみれば「耳だこ」になっているのに、そんなことはお構いなし。
昔、そんな叔母の様子を見ていた我が家の息子が言った一言が私の耳にこびりついている。
「人に おらだぢの自慢話を絶対するなよ」
息子が中学生のころの話、最も自慢できるようなことは何もないけどとほくそ笑んでいたのを思い出す。(ほくそえむ)という言葉はこんなときに使うのかな、一度使ってみたかったので…エッヘヘ)
最も私自身もそんな姉の部分を少なくとも素直に聞き入ておくだけのゆとりがなかったせいもあり、自分だけはそんなことをしないようにと反面教師になっていた。

そうなんです、姉の息子たちは二人とも野球少年で素晴らしい活躍をしていたこともあって、母親としてはそりゃ誰枯れなくしゃべりたいのは無理もないこと。
そんな姉の話を、「もうう何回も聞いた話しだよ」とは言えずに我慢して聞かなければいけないというストレスがたまることも多々あった。

 そんな自慢話をしているうちはまだいいとして、そのうち姉の体調が思わしくなくなると、一転してマイナーへと変わる。
これまた、性格の弱い部分が素直に出てしまうところがある。
そこも 意地っ張りな私とは反対の性格なので、ある意味うらやましいとさえ思うこともある。

 これまた、心身が弱くなると、SOSを発信しやすいターゲットが私らしい。
その理由として、夫の頑固さで苦労した経験者である私だからこそわかってもらえるだろうという「同病会い痛む」的なところから来るもののようだ。
それになんといっても、心身の痛みは経絡治療で楽になるという一番の経験者であるため、「苦しいときの神頼み」的な気持ちが強い。

 本人に言わせれば、「心臓がこんなに苦しいのにどれだけ我慢すればいいの」とか、介護の大変さを泣き言のように並べる。
息子家族が一生懸命面倒見ているのだから、家族でない私が余計な口を挟むことはできないが、姉のことが心配な私としては、せめてせめて、姉の話を聞いてあげるしかない。
本格的に姉がダウンしないように、好物を作ってまめに通ってあげるしかない。
話し始めは泣き言ばかりだけど、話しているうちに声が出てきて、気持ちがスッキリしたと笑顔も出てくる。
社交的なそんな姉の家には、心配してきてくれるお客さんも多く、そんな友人たちにも励まされながらこの正念場を乗り切ってくれることをただただ願うのみ!
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by wappagamama | 2012-03-10 23:47

≪老老介護≫


 去年の秋ごろだったかな、 10歳年上の姉夫婦の記事を書いたことがある。

若いころに親のように面倒を見てもらった姉との歴史や思いでは他のどの兄弟よりも深い絆で結ばれている。
お互いが健康でいるときは電話さえおろそかになってしまっていることが多く、「おめは いっつも忙しそだがら電話するのを遠慮しているなだよ」とゆっくり話をすることさえあまりなかった。

 姉が体調が良くないときには、息子夫婦に送ってもらって治療にだけは良く来ていた。
「後縦靱帯骨化症」(こうじゅうじんたいこつかしょう)という持病をかかえているため、背中・方が亀の甲羅のように硬くなり、疲れてくると全身がおもだるく苦しくなる。
そのため鍼灸治療に来ることが何よりの救いとなっているようだ。

最近治療に来る回数が極端に少なくなっているので気にしていたところ、案の定、癌との闘病中だった義兄の病状が悪化して、家を離れられない状況になっていた。
在宅介護となっているその状況は、視力のない私にも旨が締め付けられるほどの大変な状況となっていた。

 腕のいい一本気な職人気質のその義兄は、入院することを拒み、頑固として自宅療養を譲らない。
私が駆けつけたときにはもうすでに、経口摂取(口から栄養を取ること)もままならない状態だった。
昼夜一転し真夜中に起きて明け方に風呂に入るという頑固さが頂点に達していた。
がっちリとした大柄の夫のよろめく体を抱えながらの、入浴介護に疲れ果てていた姉の疲労度も限界をはるかに超えていた。

 しかも、日中義兄は、自室の布団で寝ているのではなく、出入りの激しい茶の間のコタツに布団を強いて寝ている。
茶の間の四方八方玄関への廊下、台所・風呂場洗濯場・庭への出入り口となっており、姉が何をするにもその動作上の中心となっている。
どの戸を開けても、寒風吹きすさむ。
物音を立てないようにと気遣ってはいても、病人にとっては全てが身に刺さる。
二中寝てばかりいるとはいっても、そんな生活音が気に障るらしく、暴言を吐く夫の介護に心身ともに参っていたようだ。

泣き言を言うようになった姉の話を聞いてあげるくらいしかできない私ではあるが、夫の頑固さと暴言暴力に関しては私の方が姉の上前を経験している。
だから 今の姉の気持ちが痛いほど良くわかる。

 昼夜一転してそんな生活が1ヶ月以上も続いているとの事。
「もう少しがんばれ」というしかない私の言葉に姉は「もう少しって 後どれくらい?」と力なくつぶやく。
心が締め付けられる。後で後悔しないように、やれるだけのことはやって上げなければ… な?」としかいえない私。
でも本当のところ、姉の体も心配なので、「自分のことをもっと大切にしなさい」と手を握ってやることしかできない。

 そういっている私自身、夫の介護をほとんど娘一人に任せてしまったという後悔が残っている。
ある意味、「傍にいて看病できることは幸せだと思うよ」
と自分が後悔していることを本音で話せるのもこんな状態だからこそであると思う。


 息子家族も歩いて2・3分くらいのところにいるので出勤前と帰宅後には必ず来て面倒を見てくれてはいるが、そんな姉がとうとうダウンしてしまった。
心臓が苦しくなり息ができなくなるような恐怖感に襲われたと病院で点滴を受けながらの介護生活となった。
「心因性狭心症」と病名がつけられ、通院と服薬をしながらの老老介護状態となっている

 こんな状況を見かねた息子夫婦は、父親を入院させることができた。
が、治療の飼いあって…・食事を取れるようになりもう少しで退院できるかもしれないとのこと…。
人の命の長短は神のみぞ知る。
甥っ子いわく「今が正念場だと思う」と力づよい言葉。
がんばれ 老老介護!!!
いや そんなにがんばらないで 老老介護!
共倒れ介護直前を目の当たりにして、なすすべのないかなしさ…。
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by wappagamama | 2012-03-10 16:16