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「迷惑かけたくねぇ」 被災した苦悩の障害者


3.「迷惑かけたくねえ」被災した苦悩の障害者

 震災から50日間近くが経過し、被災地は次第に落ち着きを取り戻しつつあるが、災害弱者へのサポートは十分に行き届いていないのが実情だ。被災者の中でも、とりわけ視覚障害者は厳しい境遇におかれており、対策本部の担当者は「公的機関などによる対策が必要だ」と訴えている。
 「迷惑になったらいけないから…」。50人が避難生活を送る宮城県名取市の下増田小学校の体育館。全盲の曽我作松さん(86)は、遠慮がちに語った。
 段ボールの間仕切りの一角で、長男の昭三さん(58)、美佳さん(40)夫妻、孫3人とともに暮らしている。パーキンソン病を患う妻の三子さん(84)は、過酷な避難所生活を避けるため、茨城県の長女宅へ引き取られた。
 曽我さんや昭三さんらが暮らしていた自宅は、水没した仙台空港の近く。津波は、1階の天井付近まで押し寄せた。
 曽我さんと三子さんは当初、自宅近くのビニールハウスに逃げようとしていたが、美佳さんらが車に乗せて避難。その後、津波が押し寄せ、急死に一生を得た。美佳さんは「あのとき、じいちゃんたちを連れてきて本当に良かった」と振り返る。
 ただ、着の身着のままで逃げ出したため、ほとんど何も持ち出せず、津波で白杖も流された。
 避難所暮らしは1カ月を超えた。曽我さんは「みんな苦労してる中で文句は言えねえ。まだ、家族に助けてもらえるから」と話す。
 最も困るのがトイレだ。自宅では一人で行けたが、勝手の分からない避難所では介助が必要となる。日中は美佳さんが連れて行くが、不在になると、避難所の保健師らに頼むことになる。午後10時の消灯後にトイレにいくときは、隣で寝ている昭三さんを起こして連れて行ってもらう。
 息子といえども、気がねはある。「働いて帰ってきて寝てるとこ起こせば、誰でもいい顔はしねえ。なるべぐ迷惑をかけねえように、飲んだり食ったりはしねえんだ」
 曽我さんは50代から視力が徐々に落ち、75歳で全盲となった。震災前までは自宅近くの畑で野菜作りに勤しんでいたが、今は一日中避難所で過ごす窮屈な毎日だ。「家に帰りてえども、みんなの迷惑になるから、ラジオ聞いたり、寝るしかねえな」。寂しそうな様子で語った。
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by wappagamama | 2011-04-29 16:41

盲人たちの 「3、11」


 ●震災前はあらゆる建物から「音」
 国立特別支援教育総合研究所の総括研究員、田中良広さん(視覚障害専門)は、物体がどこにあるかを「聴覚」によって知覚することでも一定のイメージができるという。
 「建物があればその建物の向こう側からくる音が遮断される。建物のないところは、向こう側の音が聞こえてくる。そうすると、いつもと違う雰囲気を感じることができ、その建物がなくなったことがわかります」
 目が不自由な人ならではの、「音」への感覚……。
 自宅が津波で破壊された釜石市の中村亮さん(57)は言う。
 「地震の前は、街を歩くと音響信号機の音が聞こえ、レコード店からは音楽が聞こえました。どんな建物からも何らかの音が出ていた。それで、いまこの辺りだというのがわかりました」
 20歳の時に網膜剥離のために失明した。鍼灸師の資格をとり、30年ほど前に、故郷の釜石に鍼灸院を開設した。
 地震は、診察を終えて一息ついている時に襲ってきた。やがて、大津波警報のサイレン。近所の人に導かれ、弱視の妹(55)と急ぎ足で逃げた。背後から津波が迫ってくる音が聞こえた。高台から「早く走れー」と叫ぶ声が聞こえた。同じように逃げる何人かの足音も聞いた。
 震災後はずっと市内の避難所にいるので、街の様子はわからない。地面は以前とは凹凸も激変し、歩くのもままならないだろう。それでも2回、車に乗って町内を移動した時に、明らかに以前と違うことを感じた。
 あれほどにぎやかに聞こえていた「音」が消えていた。
 「まったく音がしない街になっていました」
 いま思えば、瓦礫除去の音があったはずなのに、なぜかそれは、聞こえなかったという。
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by wappagamama | 2011-04-29 16:28

盲人たちの 「3、11」


 ●盲学校の寄宿舎の部屋「雰囲気変わった」
 厚生労働省によると、身体障害者手帳を持つ視覚障害者は岩手、宮城、福島の3県で約1万6500人。その被災状況は今もはっきりしない。助かった人もいるが、宮城県視覚障害者福祉協会によれば、安否不明も、宮城県だけで30人ほどいる。大規模火災にも見舞われた気仙沼市では亡くなった人もいた。
 3県にはそれぞれ、目の不自由な子どもたちのための視覚支援学校(盲学校)がある。
 岩手県立盛岡視覚支援学校(盛岡市、生徒数44人)は、地震の当日が卒業式だった。
 4月に中学3年に進級した日野沢瑛君は、式の後、道路を挟んで隣にある寄宿舎の部屋に一人でいた。揺れのため部屋のドアが激しく音を立てた。気持ちが焦ったが、すぐに教員が駆けつけ手を引いて外に避難できた。
 「地震が落ち着いて部屋に戻ると、うまく説明できませんが、どこか部屋の雰囲気が変わっていました」
 宮城県立視覚支援学校(仙台市、同65人)は海岸線から10キロほど離れた青葉区にある。校舎に被害はなかったが、自宅が津波で流された生徒が2人いた。
 視覚障害者の中には、生まれつき目が見えない人もいる。そうした人たちは、あの大津波や壊滅した街を頭の中でどう描くのだろうか。
 福島県立盲学校(福島市)の水本剛志教諭(33)は言う。
 「私も生まれたときからほとんど目が見えません。だから、『街』そのものを頭の中で描くことはできない。『街』や『海』というのは、大きすぎて触ることができないからです。それでも『壊れる』というのは、例えば壊れたおもちゃや模型を触ることで、ある程度わかる。『家』も、壁や柱など部分的には触ればわかる。それを大きく広げて震災被害のあった街のイメージを作り上げていくことはできます」
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by wappagamama | 2011-04-29 16:25

盲人たちの 「3、11」


 ●海水が引く音、ギシッギシッと
 岩手県釜石市。親類の家に家族で身を寄せる小笠原拓生さん(43)を訪ねた。24歳の頃に徐々に視力を失っていく難病のベーチェット病と診断され、3年後に全盲になった。
 震災当日は、釜石港から300メートルほど離れた場所にある3階建ての自宅兼会社の1階で、やはり音声パソコンを使って仕事をしていた。
 昨年亡くなった父親が創業した清掃会社で、2人の叔父が社長と会長を務めていた。
 遠くの方からゴーという地鳴りのような音が響いたと思うと、激しい揺れがきた。船がローリングするような感じだった。
 3階で遊んでいた子どもたちを高台の小学校へ避難させた。30分ほどたったころだろうか、携帯電話のワンセグ放送で津波が来ていることを知った。すぐに会社2階への階段を上った。
 外で社長の叔父の「きた!」という叫び声が聞こえた。ほぼ同時に爆発音が聞こえ、下から風が空砲のように「ぽーん」と襲ってきた。
 「玄関の鉄の引き戸がはじき飛ばされる音だったのかもしれません。後で聞いたところ、裏の駐車場に止めていた車が、津波に押されて事務所の中に突っ込んでいたそうです」
 屋上に出ると海水のせいで冷気を感じた。「ゴー」という咆哮がやむと、静寂が包んだ。
 「しーんという静寂。何も聞こえないんです」
 夜はそのまま自宅の3階で寝た。時々、建物がギシギシきしむ音がした。海水が引いていくのか、「ギシッギシッ」という音も耳に入ってきた。
 一緒に逃げのびた叔母(68)に後で聞くと、この「静寂」の夜空には、三日月が浮かんでいたという。
 結局津波は2階の半分近くまで達し、1階部分は津波で破壊された。会社の書類、印鑑、パソコン……。すべて津波に持っていかれた。そして、2人の叔父と、別の男性従業員も津波にのまれて亡くなった。
 目が見えない小笠原さんは2階に退避したのが奏功した。普段から津波がくれば2階に逃げようと決めていた。築11年の建物は、多めに鉄筋を使い頑丈に造ってあるので、外に逃げるより安心という気持ちがあったからだという。
 死者・行方不明者2万7千人。未曽有の大地震は、目の不自由な人たちも、容赦なく襲った。
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by wappagamama | 2011-04-29 16:18

盲人たちの 「3、11」


 ●足元が急に冷たく、抗がん剤の袋抱えて
 吉田千寿子さん(74)も、津波に足元をすくわれそうになった。
 自宅は岩手県陸前高田市。美容院を開業していたが、50代半ばで緑内障のため視力を失った。
 そのとき、一人でベッドに横になっていた。激震がきて、コタツの下に潜りこんだ。
 このまま死んでもいいかな
 --。一瞬、頭をよぎった。去年の8月、大腸がんの手術をしたばかりだった。2人の子どものことが頭に浮かんだ。思い直した。手探りで靴を履いた。友達が置き忘れていった老人用の杖に手が触れた。それを頼りに腰をかがめて、外に出た。
 外は、しーんと静まり返っていた。
 「かよちゃーん」
 向かいに住む一回りほど年下の女友達に助けを求めた。
 彼女に手を引かれ、150メートルほど先の寺へ向かった。
 「津波が来ているから走って!」
 かよちゃんが叫んだ。バリバリというすさまじい音が背後でした。無我夢中で走った。
 大腸がん手術の際のおなかの傷口が痛み、寺の手前でつまずいた。ひざをすりむいた。立ち上がって山門につづく短い石段を上がった。そのとき、急に足元が冷たくなった。海水が足首の高さまで押し寄せてきた。
 誰かに手を引かれ、何とか石段を上りきった。
 「みんなの手を借りて、転ばないように走るので精いっぱいでした」
 気がつくと、抗がん剤の入った袋を握り締めていた。
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by wappagamama | 2011-04-29 16:12

盲人たちの「 3、11」

 ●指ちぎれるほど夫の手握り締めて
 岩手県大槌町の上野キエさん(74)も、何度も津波をかぶった。
 「このまま天国さ行くと……」
 青ざめた顔で、振り返る。
 60歳の頃に網膜剥離を患い、光を失った。町の中心部を流れる大槌川沿いの家で、夫(74)と2人で暮らしていた。
 遅めの昼ご飯をすませ、持病の高血圧を下げる薬を飲んでいると激震が襲った。
 防災無線が津波の襲来を告げた。それを聞き、夫と家を飛び出した。6年前に病気で亡くなった長男の位牌は夫が持ち出してくれた。夫は目が見える。
 夫に手を引かれて高台を走るバイパスまでの階段を上った。
 突然、「ゴー」という轟音が聞こえた。と思うと、耳をふさがれた。後はよく覚えていない。
 いま思い返すと、津波をかぶり、何回も浮かんだり沈んだりしたらしい。
 最初は夢の中にいるようだった。どれくらいたったかわからない。「手を放すなー!」という夫の声を聞き、我に返った。夢から覚めたような感じだった。
 水面に顔が出た。叫んだ。
 「助けてー」
 何度も流されそうになりながら、夫の手を握り必死に堪えた。指がちぎれそうになった。水がしょっぱかったのを覚えている。
 「お父さんが手を握っていてくれたから助かったんです」
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by wappagamama | 2011-04-29 03:50

盲人たちの 「3、11」

盲人たちの「3.11」 闇の中あの大津波からどう逃げたのか

 光も色もない世界で、「津波の恐怖」と、どう対峙したのか。「壊滅した故郷の街」を頭の中にどう描くのか。大震災。「音」だけが頼りだった全盲の被災者たちを、追う。

 宮城県東松島市の金子たかしさん(65)はそのとき、自宅2階にあるデスクトップの音声パソコンの前に座っていた。
 目が見えない金子さんのパソコンには、盲人用の音声ソフトが組み込まれている。パソコンが発する合成音声で、視覚障害者団体などからのメールの文面をチェックしていた。
 ●波に揉まれながらも白杖離さず
 最初に、小さな揺れを感じた。「これで終わりかな」。少し安心した途端、激震が来た。外に逃げなければ。階段の手すりを伝って1階に下りた。盲人に欠かせない白杖を手探りした。あれほどの激しい揺れでも家屋に大きな影響はなかったのか、白杖はいつも置いている玄関わきにあった。それを折りたたみ、右手に持った。そこに不気味な「音」が迫ってきた。
 「ゴゴゴゴ……」と重機が近づくような音がした。同時に海岸に面する南側の窓ガラスがガチャーンと割れる音が聞こえた。
 「津波だ!」
 とっさにそう思った。
 一人暮らしの自宅は石巻湾の海岸から直線距離で300メートルほどの場所にあった。
 「シュー」という音がした。と思うと、一気に海水が胸元までくるのがわかった。体が海水ごと山側の方向に押し流された。
 無意識に呼吸をとめた。立ち泳ぎのような姿勢のまま濁流に身を任せた。水中で音は聞こえず、ただ、車のガソリンなのか、油のにおいが強かった。
 どのくらいたっただろうか、気がつくと、海水が引いていた。両手両足で四方を確認すると、頭の上にトタンのようなものがあった。手で少しずつかきわけていった。
 修羅場の中でも、なぜか白杖を最後まで握っていた。それを伸ばし、周りを探った。障害物が何もなかった。それで残骸の一番上に出られたのがわかった。
 ずぶぬれのまま残骸の上に腰掛け、じっとして体力の消耗を防いだ。やがて聞き覚えのある女性の声がした。
 白杖で残骸をがんがんたたき、「助けてください!」と叫び続けた。
 女性は近所の民生委員だった。彼女に助けられ、近くにあったもともと空き家の一軒家に避難した。「とりあえず今夜はここで」と彼女に手を引かれて階段を上がった。空き家の1階部分は津波にやられていたが、2階はかろうじて無事だという。
 夜はこの2階で一人で寝た。幸い布団があり、下着一枚で毛布にくるまった。目が見えないことに加え、勝手もわからない家で、ただただ、じっとしているしかなかった。水も食料もない。小用を足すときは、手探りで窓を開けて外の階下へ放った。
 熟睡できず、うつらうつらした。余震の度に家全体がギシギシ音を立てた。それ以外は、物音一つしない静かな夜だった。
 翌朝、「金子さん、いますかー」という声が、外から聞こえてきた。民生委員の女性が自衛隊に連絡してくれていた。
 救出後、避難先で医師に診察してもらうと、肋骨が4本折れていた。激流にのまれていた時、残骸にぶつかり、強く圧迫された。その際に骨折したらしい。
 3月下旬に姉がいる栗原市のアパートに引っ越した。
 30代後半に緑内障を発症した。徐々に視力をなくし7年前に完全に失明した。
 自宅のあった野蒜地区は、800人を超す死者が出た東松島市の中でも津波被害が最も大きかった地域だ。地区では300人を超す遺体が見つかっている。金子さんの知り合いも隣人を含め10人以上が亡くなった。そうした中で、目の見えない金子さんが助かったのはなぜか。
 「失明する前、趣味でスキューバダイビングをしていました。その時に、水の中では何をしても無駄だから、水に逆らわず無駄な動きだけはするなと教わりました。そうした経験がいきたのかもしれません」
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by wappagamama | 2011-04-28 19:08

ドギッ! 何のこと?・うれしい・ありがたい・お見通し」o

 「灯油ポリタンク転倒事件」の記事を更新したの夜、札幌のN先生から電話をいただいた。

そのときの先生は、いつもの 「ニヒル」でもの静かな先生とは、すこ~し雰囲気が違っていた。
「Nですけど、今 ブログを見たんだけど…」と心なしかトーンが高いように感じた。

 一瞬と惑った私に「アッ 寝てた?」それを否定した後、先生の言葉はなおも続いた。
「あのね 中和剤はありません勝手聞いてみな???」「はい?」と疑問符の反応の私になおも「中和剤はありませんかと 丁寧に聞いてみなさい」とのこと。
そこまできたときに先生の電話の意味がやっと理解できた。
数時間前に更新したばかりの、マイブログの記事に対してのお話をしてくれているんだ と…。

 「灯油タンク転倒事件」に対して即座に反応してくださった先生。
うれしいというか、ありがたいというか、でもチョット大げさではないかと言う気持ちも?…(シィ~)。
そんな私の気持ちを見抜かれたのか、「アレッ? こっちは灯油タンクといえば?… あ そうか 何 18リットルの?…」
そう 先生は軒下においておく様なでっかいタンクと思ったようだった。
あそうか? それでも 息子タバコすうんだろ?、それならやはり、中和剤の事を聞いてみな?」
「犬がいることもちゃんと伝えなさいよ」

そして、私の性格お見通しの先生は、怒鳴り込んだり、抗議調になったりしないようにと、何回も繰り返し「中和剤ありませんか?」って聞いてみな?」と…。

そのころには もう先生はいつもの先生に戻っていた。
ほっと胸をなでおろしたのは私…。
なぜなら 最初の先生のいつもと違う雰囲気に「ドキッ!」としていたから… 

もしかすれば、先生のHPの記事をいつも無断拝借しているから…。
「いいかげんにしろよ!」とでも言われるのではないかと…。
と伝えた私だったが、軽くあしらわれてしまった…。

たった数分間の電話だったけど、一瞬一瞬、「どぎっ!・何のこと?・ブログ見てくれているんだぁ・心配してくれているんだぁ・いえ エルモのことも・そしてUVばばぁ防止まで…。
  お陰で私は《UV》ばばぁにならずにすみました(ニコニコ)、

追伸
何かあってからではと思い、一応業者さんには連絡しておきましたが、翌日お茶菓子とタオル持参で奥様が誤りに着ました。
いえっ? 決して脅したりはしませんでしたからね… フ~ッ
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by wappagamama | 2011-04-27 18:02

綾ちゃん


 陸前高田市から非難してきている、同級生の綾ちゃんを励ます会が行われた。

 五十数年ぶりで、中学のときの同級生綾ちゃんとは、卒業以来還暦の同窓会で出会ったとき以来、今回で二回目。
音信不通のまま、お互い人生の大半をすごしてきた。
前回でも書いたように、転校生だった綾ちゃんはともかくとして、湯沢で生まれ育ち数十年ぶりで、再び地元生活に定着しているわたしでさえも、ほとんど同級生とは縁がなかった。

 今回このような大災害が発生したことにより、誰もがみんな心がひとつになった。
半世紀以上も音信普通だった同級生でさえ心がひとつになった。
世話役さんのお陰で話がとんとん拍子に決まり、10人ほどのメンバーが集まった。
綾ちゃんもわたしも友達が少なかったので、参加してくれた人の名前を聞いても顔が思い浮かばなかった。
最初は正直言って名前を聞いてもわからなかったが、そのうち話しているうちに、同じクラスになったことのある人の顔が少しずつよみがえって来た。
それもみんな、中学・小学生のころそのままで…。
「ずるいなぁ…、私だけ年取った顔そのまま見られているの…」
と思っていたが、そのうち、声が みんなそれぞれ おばさん声?… 笑い声も…、しゃべり声も…おじさん声…
いつの間にかみんな 年 相応に同調しているではないか?…(わらい) もちろんこの私も…
誰かが言った、」もう 来年は「こき」だよ」と…。

聞けば、 こんな狭い市内に、同級生は結構存在していた。
知らなかったのは私だけ…。
交われない自分がいることに改めて感じたが、綾ちゃんのお陰でこのハードルが乗り越えられたら?…。
綾ちゃんがいてくれたら、この先私も何か変われるのではと、不思議な綾ちゃんの人柄に、言い知れぬ思いが込みあげてくる…。

あの 未曾有の大災害から着の身着のままで逃げ延びてきたこの小柄な綾ちゃん。半身不随の旦那様と息子さんの3人で命からがら逃げ延びてきた綾ちゃんの武勇伝には、みんな励まされていた。

アレッ? これは 《綾ちゃんを励ます会》だったんではなかったかな?…。
半世紀の時空を越えたその日は《綾ちゃんに励まされた会」となっていた。

  子供のころのおっとりしたあの綾ちゃんと同一人物とは思えないほどの、「浜のおかみさん」という チャキチャキで明るく快活なその姿は、人生の歴史を感じさせられた。 

ご主人の病気を心配して、お風呂・布団・温かいご飯を食べさせてあげられると、実家に非難してきた綾ちゃん。
被災地に仮設住宅ができるまで、ここでがんばると明るく気丈にくったくなく語る綾ちゃん。
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by wappagamama | 2011-04-26 21:13

さっきの続き…

「…」 としか思われない原因が頭の中から消えない。

 これはどうしたものかと 思いあぐねていたが、なにわともあれ 流れ出た灯油を拭き取らなければいけない。

 落ちた勢いでポリ容器の明け口が冷蔵庫のしきいを枕にして倒れていたので、勢い冷蔵庫の前は灯油びたし。

 鼻を突き刺す刺激臭が頭をくらくらさせる。
これって なんか 一酸化酸素中毒ってのにはならないよね?…
などと独り言を言いながらぶつくさタオルで拭き取っていたが、タオルくらいでは間に合わず、磨耗しかかったバスタオルで冷蔵庫を移動しながら手を入れて拭き取った。

 そこいらじゅう灯油の激しいにおい!
熱いお湯で士ぼったタオルに台所洗剤をタップリ染みら背そこいらじゅう何回も拭き取った。
それでも 激臭は収まらない。
そう 灯油は洗濯場の下にも流れ出てしまっていたのだから…。
床を拭いただけでは刺激臭がなくなるわけではない。

 満タンのポリ容器が半分以下になっている。
洗濯場の隙間から地べたに新聞紙を差込、少しでも匂いが消えてくれることを願って不自然な姿勢で新聞紙作戦。


 洗濯場の窓の戸を開けっ放しにし、台所の換気扇を回しっぱなしにしていても、頭が痛くなるような匂いは消えない。
私でさえこれなんだから、嗅覚の鋭いエルモにとってはどんなにつらいだろうと思ってしまう。


 そんな状態のまま一晩が過ぎ、朝になってもその刺激臭は消えない。
エルモはだいじょうぶなのだろうか? 頭が痛くならないだろうか?…
それに、こんな状態で 患者さんが着たらどうしよう?
などと心配したが、換気扇と洗剤とパブリーズ作戦で何とかごまかした。が…
「これこれしかじかで においませんか?」と聞けば、お灸のにおいがするだけですよ と…。
たすかった?~
患者さんが刺激臭で頭が痛くなったなんてことになったら大変。
私は今この時間になってもまだ、刺激臭が気になる。
密かに洗濯場の窓のとは開けっ放しで換気扇を回しているのに…
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by wappagamama | 2011-04-21 20:43