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10日ぶりの「産湯…」






 「10日ぶりに風呂に入った」の息子のメールで、一瞬にして彼の「産湯」を使ったときのことを思い出した。

 母親なんて何時までたってもそんなものなのだろうか?…と思いながら昔の糸がずるずると手繰り寄せられる。


 彼が生まれる丁度1ヶ月前、産着を作るために私は、湯沢の実家に戻っていた。

丁度そのとき 嫁ぎ先が火災に愛、全焼してしまった。
息子の父親は自動車整備工場を経営していた。
溶接作業中のバーナーの火がガソリンに引火して、工場はあっという間に火に包まれた。
工場の奥にあった住まいも、すべてガソリンの勢いで真っ黒に焼け落ちた。

もし 私がそこにいたら、臨月を迎えて大きなおなかで、その火の中から脱出することはできなかったろう、とみな口々に言っていた。
「実家に帰っていたから命が助かったんだよ」とみなに励まされながらそのままお産を終えて実家に帰っていた。


悪いことは続くとはよくいったもので、嫁ぐ直前に父親を癌で亡くしたばかりだった。
そして更に、13歳年上の長姉も余命いくばくも無い病床で戦っていた。

 そんなときの私の縁談が盛り上がり、少しは亡き父や姉・母に安心させて上げたいという思いが働き、進められるままにわたしは嫁いだ。

そのときの母のことを思えば、世間知らずのお嬢様育ちの母にとってそれまで全面的に頼りにして生きてきた連れ合いと長女を亡くしたばかりで、途方に暮れていたはずだった。

 にもかかわらず、母は、ショックを起こして病気になりやしないかと私のことを心配して「母親になるなだがらな! 赤ん坊が無事に生まれることだげかんがえでいればえがらな!」と 献身的に包み込んでくれた。

 そんな母の祈るような思いが私を変えていった。
「生まれてくる我が子のためにも、強く生きなければ」と心に誓った。
今考えればわたしは若干22歳になったばかりの春のこと。
まだまだ世間など知らない幼いままで嫁いだような気がする。
しかもそのころの縁談としては、それは決して珍しいことではなかった。


  そんな妹をどう思っていたのか、病床の長姉は、私への餞(はなむけ)として、3セットもの「きもの」を揃えてくれた。
そのときの姉の表情・言葉・声そのひとつひとつが今でも鮮明に脳裏に浮かぶ。
「しあわせになれよ」と最後の力を振り絞って励ましてくれたあの姉のことば。

ふたりの幼子を残して逝かなければいけなかった姉の無念さが、心を締め付ける。
その姉は、私が嫁いだ翌月永眠した。

その姉からのはなむけの「きもの」にただの一度も袖を通すことなく、その火災で影も形も残っていなかった。
その事実を知った私は平常心ではいられなかった。

 息子の父親は、整備工場の建て直しのため、夜もろくに寝ないで走り回っていた。
生まれたばかりの我が子を、ゆっくりと抱いてやる暇もなく、夢中で再建に頭を悩ませていた。

焼け跡を見ないほうがいいと強く拒否されて、わたしは現場は見ていない。



今考えれば世間のことはまだよくわからなかった分、息子が生まれたことに幸せを求めていたのかもしれない。
いや 違うな? やはり単純に、我が子がかわいくてかわいくてそれだけで幸せだったよう泣きがする…。
あのどん底から私を救ってくれたのは、無心に私を求めている息子だった。

吹雪が吹き込んでくるような寒い実家での「産湯」を使ったとき……。
お湯がぬるくならないようにと、一所懸命脇からお湯を注いでくれた母。
子の母のためにも、そして無事生まれてきたこの子のためにも、強く生きなければとまだ未熟だった私に力を与えてくれた。
そのときのあの光景が脳裏にはっきりと浮かんだ。
長い間腰痛で苦しんでいた息子。
術後10日目、「10日ぶりで風呂に入った」息子からの、電報のような一本のメール。私の脳裏に一瞬にしてあの「産湯」の光景が広がった… …。
by wappagamama | 2010-04-17 00:14
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